行政書士事務所みらい代表は、沖縄県生まれです。
197●年 沖縄県那覇市で生まれました。産院は泉崎病院とのこと(平成18年、おもろまちメディカルセンターと改称)。
両親とも、沖縄県生まれ
父はその頃、USAF(アメリカ空軍)に軍属として勤務していたようです。
那覇商業高校卒業後、基地で経理を担当していたそうです。おそらく嘉手納か?
父方の祖父は、大戦中、海軍に奉職しており、階級は兵曹長、終戦時はインドネシアのセレベス島にいたそうです。この島は日本軍の統治が上手くいった成功例の一つとのこと。(海軍メナド空挺降下でも有名です)
那覇市の中でも、若狭という地区に住んでいた。海はすぐそばだった。
この通りの店舗兼住宅で暮らしていた。今でもほとんど変わっていない。
街路樹は、でいご 毎年春になると真っ赤な花が咲く
那覇市内で唯一の海水浴場波の上ビーチがあり、毎日のように海で遊んでいた。
波の上ビーチ、ちなみに県民は泳ぐなら服着て泳ぎます、
でないとやけどする!
早朝の波の上ビーチ(26年11月撮影)
なにしろ6歳までしか住んでいなかったのだから、あまり記憶に残っていないのだが、それでも今でも鮮明に思い出せる出来事がいくつかある。
・ウニをとったり、洞窟で遊んだり、ヤドカリに挟まれ出血したこと
↑ その洞窟、中に入るとヤドカリがたくさん住んでいる
沖縄のヤドカリは本格的に危険です、うっかり挟まれると血だらけになるか、下手すると指ちょんぎれます!
・岩場に足を挟まれ、潮が満ちてきて死にかけたことがある
足を挟まれた現場 昔は鎖などなく岩場だった
・那覇市若狭から58号線を歩いて、牧港までいったこと、5才のとき
58号線 沖縄では至る所に米軍基地がある
など、ここでも遊んでいたことばかりよく覚えている。
26.11.7 波の上宮、ちょうど七五三前の時期だった
銅像はどなたなのだろう?夜の波の上宮はとっても趣があった。
ちなみに私が住んでいる頃の波の上は、こんな感じだった。
何かの施設が廃れてそのままとなっており、子供たちには格好の遊び場だった。青や黄色の熱帯魚がたくさん泳いでいた。
昭和40年代の写真
たそがれ時の波の上ビーチ、ちょっぴりさみしい・・・
故郷の思い出に、写真を撮っていたら、三人の女子高校生がカメラの前でピースしてきた!
黄昏時の波の上ビーチ、ふと現れた水浸しの女子高生たち、おそらく服を着たまま海に突入していたのだろう・・・知らない人にも気さくにポーズする沖縄人特有の人懐っこさ、限りない詩情を感じました。今まで撮った写真の中でもお気に入りの一枚です。島娘はみな、かわいい・・・
以上、おしまい。
今回のお話にオチはありません。我が故郷の砂浜と、上の画像を披露したかっただけです・・・ ご静聴ありがとうございました!
(おまけ)
名護市から美ら海へ向かう道
平和祈念公園内 摩文仁の丘
信濃の塔
沖縄戦で亡くなられた長野県出身者の碑